住友検見川ハウス エッセイの会

蝶の数え方論議 

河尻 宏史

六月のきら句会が終った。きら句会は小生が参加している学生時代の友人が主宰する俳句の会。句会は一人三毎投句、九人で二十七句になる。

 その中の一句にわが花壇夏蝶二頭の乱舞かなという句があった。「わが花壇」に少々引っ掛かりがあったがなかなか格調のある句である。日新しい切り口が見える。それは「蝶二頭」と読まれたところにありそうである。いつもながら自己中心的な鑑賞をさせてもらい、この句を褒めつっも「通念として蝶の数え方は一羽とか一匹ではないのか」と感想を述べたところ、小生の意 見は浅学とぱかりに、何人かの仲伺から蝶の正式な数え方は「頭」であると指摘された。これまでの習慣から改めて燐べもせずに評を述べた小生が軽率であっだが、思いも依らぬ反論であった。

 早速インターネットで調べてみると、成程蝶の「正式な数え方」は「頭」であると記述されている。意外であった。他の昆虫はどうなのであろうか。調べてみ ると、昆虫は一般妁に「匹」で数えるのが定説老あゐが、学問的に蝶・蛾・甲虫は「頭」で数え、蜻蛉・蝉・蟻・蚊・ゴキブリ・蛯蝉筝は「匹」と数えるらしい。まだまだ昆虫はいくらでもあるがこんなところが根場の様である。

 しかし「正式」とは何ぞやと自問自答している。正式と言われると正式が正してそれ以外の「匹」とか「羽」は間違いだが許されるという様なニュアンス である。私は首を傾げ臍に落ぢぬ態度でいる。

 「正式」という言葉には「学問的とか専門的に言うと」という説明がついているところをみると、自然の中を自由に飛び舞っている命ある蝶の数え方と、昆虫 学者が標本にしたり解剖をしたりしている時に対象としている蝶とは別物だと思えてならない。俳人の詠んでいる蝶は明らかに前者であろう。正式に、拘ると正式の方が正しいと強調し過ぎていはしないか。あなたは子供や孫に「蝶の数え方は頭と数えるんだよ」と教えられますか。そんな覚え方を されたら困りませんかと言いたい。

 哺乳類の動物も「頭」であったり「匹」であったりする。これは数えている当人の人間が、自分の大きさよりも大きい動物、象・麒麟・ライオン・牛・馬等は「頭」と呼び、自分より小さい動物のキツネ、犬、猫、鼠等は「匹」と一般妁には呼ぶそうだ。
日本語はややこしい。森羅万象、すべてのものに数詞があるから。外国人が日本語を学ぶのは大変だろうと思う。新しい製品が生まれるたびに誰かが神様に変わって呼称を付けているのだろう。

 台風の数は? 線状降水帯は? 女性のブラジャーは?なんと数える?

 小生の負け惜しみの一文である。        (令和6年9月)

エスペラントに愛をこめて

  窪田 哲香

50年前「住友検見川ハウス」と云う、総戸数422世帯の新築マンションが売り出された。
それを見た、それぞれ異郷の人が「このマンションにしよう」と決めた見知らぬ者同士がお互い偶然且つ「袖振り合うも多生の縁」の絆の下、集いし人々が入居した。

 人生の全ての出会いは初対面である。それらの人々と、二度とない今日と云う日を生きる日々を重ねて半世紀、出会いし人々と共にここに暮らす。 流浪の俳人の小林一茶が苦悩の末に辿り着いた故郷で詠んだ「これがまあ ついのすみかか 雪五尺」がある。
都内の便利な社宅から、埋め立て造成の見知らぬ土地への移転は「これがまあ ついのすみかか 埋立地」と川柳を詠む思いであったが、反面、我が家と決めた12階の西向くベランダから、遥か彼方の富士山をはじめ、東京都内の高層ビルや東京タワーが、眺望絶佳「遠き山見ゆ」「遥けくも来つるものかは」の豊かな詩情を漂わせていたことは救いであった。

 千葉市美浜区真砂3ー17に偶然出会った人々と暮らして来た、検見川ハウスの生活環境は14階建てが2棟、9階建、10階建てからなる計4棟のマンションである。全館、給湯暖房付きがセールスポイントである。24時間、いつでもシャワーは、ありがたき幸せである。JR京葉線、検見川浜駅から3分。東京駅まで40分。
2キロ先の検見川の浜へ行けば、遥かに仰ぎ見る富士の高嶺。住めば都とはなりぬ。

 居住者の仲間内での活動は活発である。そば打ち、遠足、合唱、絵画、囲碁、将棋、エッセイ、麻雀、等々、他に類を見ないグループの活動である。エッセイの会は発足して3年目である。我が検見川ハウスの仲間内で互いのエッセイを読み、楽しむ程度のグループだと思っていたが、メンバーの中にエスペラント語を愛し、我々のエッセイを翻訳して、全世界へ送信すると云う人がいたことは驚きであった。地球上のエスペラント語を愛する人達の目に触れる機会を得たことは喜びであり、恥晒しでもある。エスペラント語の翻訳者は永年、高校の先生をやり、若者との交流を得意とし、青春を謳歌しておられる先生である。高校生との3年間は川の流れのように、元の水にあらず、入学と卒業の人生の激動の時期を共に過ごした、豊かな人生模様を体験された先生が、更にエスペラント語で世界へ羽ばたかれているのである。先生が訳されたエッセイをいずれの国の誰かが、読んでいるかも知れない、と思うと心ときめく心地こそすれ。

 新たなる 言葉作りし 人ありて 世界を結ぶ エスペラント語   

サンマの思い出

栗下修一

東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市を訪れたのは、2016年初夏のことだった。太平洋に突き出た半島の先っぽに建つ神社で、あるイベント開催のための下見と打ち合わせが目的だった。その神社は海のすぐ近くだったが高台にあっため、社も森も被害に遭うことなく、静かに落ち着いたたたずまいだった。しかし、打ち合わせで寄った市役所はプレハブで、海からだいぶ離れているにもかかわらず、周辺は津波の被害を受けたそのままの荒涼たる風景だった。かつて海岸線にはうっそうとした松林が続いていたというが、訪れた時は、奇跡の一本松”がまさに一本、細々と立っていた。 後日、その神社でのイベント本番の際は、隣の大船渡市に宿をとった。陸前高田市にホテルが見つからなかったからだ。大船渡も甚大な津波被害を受けており、そのホテルも被災地の真ん中にポツンと建っていた。翌2017年は、大船渡市がそのイベントの舞台となった。下見、本番と行くことになったが、復興中の大船渡市に選べるほどホテルはなく、毎回、前年と同じホテルにお世話になった。 夜はホテル周辺を歩いて、食事、そして一杯飲める店を探した。震災から5年、6年後の大船渡市。街の様相は少しずつだが変わっていっだ。2017年には、ホテル近くに小さいながらも真新しい店が集まって夜になると明るく輝くエリアが誕生していた。今ネットで調べてみると、『大船渡夢商店街』と名付けられた復興に向けた仮設の商店街だった。全部で7、8軒の小さなものだったが、前の年にぱなかったもので、夜の街歩きが少し楽しみになっていた。この年のイベシト開催は10月の初旬。本番の運営で滞在していた2、3日のうちの一夜、この夢商店街の居酒屋風の店で夕食をとった。メンバーは、私の職場の同僚、現地支社から駆けつけてくれた応援の社員、出演者のマネージャー、そして私の計4人。マネージャーは、女性。せっかく大船渡に来たのだから、名物のザンマを食べようとなった。このころ既にサンマの不良が言われるようになっていたのか、あるいは漁業も震災の影響で水揚げどころではなかったのか・・・。前の年、この年と、大船渡でそれまでサンマとの出会いはなかった。そもそも食事が出来る店を探すのが困難だったせいもあるだろう。この夜は、サンマが食べられる店を探して見つけることが出来た。それも七輪で焼いてくれるという嬉しい店だった。アルコールが入って、仕事のチームワークは固まっていった。サンマは超美味。さすが地元。本州一の水揚げを誇る大船渡ならではだ。食べ終わって、私は目を見張った。なんと、ザンマの残存物が大違いだったのだ。現地支社からの応撞者の皿には、頭だけが残っていた。頭以外、身も背骨も全部食べつくしていた。マネジヤー女史のお皿には、骨だけがきれいに残っていた。身も皮も全部食べてしまっていた、頭も骨だけに。一方、わが同僚と私のお皿には、頭も骨も残っている。とくに私は、腸が苦手で手がつけられない。申し訳ないような、気まずい思いで、きれいにサンマを召し上がったご両人を尊敬の念をもって見上げた次第だった。サンマというと・・・、小津安二郎監督の映画『秋刀魚の味』でもヽ落語「目黒のさんま」でもない。私には、この時の大船渡の夜が思い浮かぶのである。

サーカス

斎藤翠子

 十二月の初め、友人からサーカスの招待券をもらって新駅、幕張豊砂駅の海側にテントを張った木下サーカスを見に行った。会場は、外から見ると広大なイオン系列の建物が並ぶ端にあって、小さなドームに見えたが、中に入るとそれなりの広さがあり客席は円状に幾つかのブースに分かれていた。数十年前に北海道で観たキグレサーカスや千葉へきて柏で見た会場と違い、オートバイ用の球状の鉄柵が端の方に固定されており自分の席からは見づらかった。けれどよく見ると中の演技が三台に、と増えていたのに気づき短い時間でも今回も印象強かった。

やはり一番の記憶は空中プランコだったが、斜めの目線であったことと短時間の演技で少々物足りなかった。この日の演技者には外国人が多い様に見えた。残念だったのは動物たちの元気の無さであった。勿論ライオンは檻の中だが会場を一回り。象は居たのだろうが、他の動物は、皆うなだれて見える。飛んだり跳ねたりしているのは演技者だ。サーカス小屋での動物たちはどのように飼われているのだろうかと帰宅してから気になってしまった。テレビで見る野生の獣達の生きる動きとは、全く違う囲いの中で旅する芸の動物達。活力が失せ疲れているように見えた。

 今、人は動物を食し、動力に使い、ペットとして共に生きる時代だと思うが、ふと、人間もメカニズムの中で投入されてきているように感じる。

ほどほどの「昭和」が良かったという言葉を時々耳にするが種々の困難な中に生きて来た私達は、この元気の無いサーカスの動物たちの様になっていくのは良くない。サーカスの曲芸がさらに熟していく(?)のは良いがそれに伴なう生き物に、もっと豊かな環境を与えて欲しいと思った。

 この木下サーカスが世界三大サーカスの一つであると表記されていることに驚いた。日本唯一の動物によるショーを見ることが出来る創立二十周年を迎えるサーカス団であると記されている。動物の元気な姿をみせるのは曲芸ではなく、走り飛び回る姿でありたい。サーカスとは何か。肉を食す人間がもっともらしい言葉を使うには少しの後ろめたさがある。   道化師の鼻の赤さやナナカマド   翠子

書き込み専用メモリWOM

内垣和男

 コンピュータの記憶装置は通常読むことも書くこともできる。しかし読み込み専用メモリ(リードオンリメモリROM)というものもある。これは電源を切っても消えない代わりに、自分で書き直すことは簡単にはできない。これはパソコンを起動するときなどに役に立つ。スイッチを入れるとここに書かれたプログラムを使って大きなプログラムを読み込み、そちらヘバトンタッチする。

 ところでライトオンリーメモリWOMというものはあるだろうか?書き込むだけで読みだすことができないメモリである。ここに秘密の資料などをしまっておけば、読みだせないのだからバレる心配もない。完璧な秘密保持ができる。ただ欠点は一度保存したら二度と取り出せないことである。

 実はそのような記憶装置を私は持っていた。私のノートである。私のノートは書くことだけを目的としていた。普通の字でも崩れるのだが、急いで書くとその場で適当な略号を使ってしまうこともある。しばらくすると自分でも何を書いたのかわからなくなる。

 通信制高校で働いたことがある。締め切りまでに規定のレポートが終わらないと試験が受けられないルールだった。そのため、その期限が近づくにつれてレポートが積みあがって来る。、試験が受けられるかどうか知らせらければならないのですぐ返却しなければならない。元来職場から持ち出すべきものではないが、そうも言っていられない。一月試験の分は年内に返す必要がある。連夜日付を跨いでの。作業となり、やがて除夜の鐘を聞きながらの追い込み作業となる。最期のコメントを書いて震えながら近くのポストに放り込んできてようやく安心して眠れる。

 試験のあと生徒から「せっかくいろいろ書いてもらったのですが、読めませんでした」と言われて、さすがにムッとした。そこで私が書いたコメントを見せてもらうと、なるほど書いた私が読めない。「ああ、急いでいたんで崩し字を使ったからなあ。よくできてるって褒めたんだよ。」とごまかした。他の生徒のコメントもどれも読めなかった。そんなわけで、日本のハンコ文化に感謝した。署名だったら毎回字が違って、自分の口座から引き出せなくなるものなあ。今はATMかオンラインなので問題ない。

 そんなわけで私には日記をつける習慣もつかなかった。どうせ読めないのだ。この書き込み専用メモリWOMの素敵な利用法はないものだろうか?何かあると思うのだが。